合気道 日本光輪会合気道 日本光輪会

Aikido 合気道とは

Aikodo

合気道とは

合気道とは、日本伝来の柔術の別名であって、「合気道」という名称がわが国で使われたのは、昭和十七年大日本武徳会(明治以来の日本の中心的武道団体)が、剣道、柔道、弓道などの各部門に並んで、新しく合気道部を制定し、当時教師号審査委員であった平井稔範士が責任者としてその指導を担当したときにはじまる。

数派の柔術、剣術、槍術に熟達した平井稔範士が意図した大日本武徳会合気道とは、無手の場合は体術、剣をもてば剣術、杖(棒)を持たせれば杖(棒)術、槍をもてば槍術としてそれぞれが自由に使いこなせるという、諸武術の母体としての実践的総合武道である。この点が他派合気道と異なる特徴であるといえよう。更にまたその理想とするところは、自然心としての柔の想いがそのままに自然技としての柔術に顕現されることにある。

これがために、天地自然の理である「円転無窮」と「和合」を武術的に表現した「体捌き」を創定し、全門弟は入門以来一貫してこの修練を重ねているが、上達者が演ずるその動きは、一瞬も止らず、流れるが如く、無理なき完全円を描いて、美しくまた格調高き芸術性を感ぜしむるものである。この「体捌き」こそ、母体武道としての光輪会合気道を成立せしむる根幹的役割を果す、極意ともいうべきものなのである。

大日本武徳会の合気道を指導した平井稔範士は、戦後日本光輪会を主宰し、光輪洞々主として真の武道たる合気道の普及に努めているが、その現代的意義は、暴力から守る武技を修得することのみにとどまらず、自己完成と処世の道としての実学性にあるといえよう。すなわち正しく合気道修練に励むものはその体験を通して正邪曲直勝敗の理を解し、真理の道たる柔の想いを感得して、自ら高い見識と人格をもつに至り、武道の世界ばかりでなく、一般社会人としても真の勝者たるべき道を歩むことができるのである。

光輪洞合気道とは

光輪洞合気道とは

日本光輪会合気道の技術的な源流は柔術にあります。柔術は一人一流の言葉通り多くの流派があり、日本で最も栄えた武術の一つです。今日、合気道修行者の増加は、日本古来の武術を基礎に多くの武道場の先覚者の努力が結実しつつある姿と云えましょう。

さて、柔術には多くの流派がありますが、合気道にも流派の様なものがあります。修練の方法、技術体系の相異などから数種の合気道と称すものがあります。これを治術体系より区分しますと以下の2つとなります。

  • 体術のみの合気道。
  • 体術をはじめ剣術、杖術、槍術を含んだ総合武術としての合気道。
  • 又、修練方法より区分しますと以下の2つに分かれます。

  • 組形の反復練習にとどめる合気道
  • 組形、乱取(教習)の採用する合気道

光輪洞合気道は、特徴として、独特の乱取(教習)と総合武術性を持っています。一般に知られていない元大日本武徳会での修練方法を取り入れ、発展させているのが光輪洞合気道の修練方法となります。

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基本になるのは、体捌の心構えであり、動きであります。「体捌」は、各種の組形・技から要点を抜粋したものです。これを修練する場合は、「舞」の様に、柔らかく円く動くことを原則としています。「舞」の様に柔らかく円い動きの中に、合気道の進み方、おおらかな春にも似た気風を醸生するものです。およそ武道に不思議があってはならない。ただ修練をつんだ者のする動作は常人から見ると認識(識別)し難いだけであります。

光輪洞合気道は、球転する宇宙の理すなわち秩序ある統一体としての世界に順応(適合)して武道的立場から自分の心体をいかに球転させるかを修練するものです。すなわち合気道は「勝」を念頭に置かず、恐怖をもたず、ただ自分を完全球転することによって、相手にたいして心体を処するものであると言えます。日本光輪会の門下にある者は、その完全球転の会得を目指し、日々、日常の修練を積んでおります。

武術には危険が伴うものですが、乱取りおよび組形の場合仕手と受手の二人が“危険”をぶつけ合ったのでは体がいくらあっても保ちません。そこで体の耐えられる限界を経験から割り出して修練することになります。この限界は運動神経・体力・経験等により個人差がありますので高段者によって指導されます。又この限界を下げれば少年・中老年あるいは女性でも自由に複雑な修練を続けることができます。「舞」の様な基本動作・柔かい乱取り等は特に腰の球転を主とし、力まかせの直線的な運動はありません。従って、少年・中老年あるいは婦人の健康維持・護身術にもなります。

合気道に限らず、日本の武道は、ただ人を殺傷するためのものではありません。“体にかくした凶器”としてだけのものであれば、現代において古来の武術はその存在さえ否定されるころになりましょう。合気道は宇宙・生死の哲理を究明し、これを武道によって実証し、身心を鍛錬し、すべてを日常生活に正しく有益に生かしてゆく所に、意義があります。